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2023.10.23
コラム

「大量死と遺骨ー関東大震災の火葬はいかに経験されたか」を読んで

朝日新聞の論壇時評に取り上げられていた「都市問題9月号」を取り寄せ、問芝志保氏の記事を読んでみた。今年は関東大震災からちょうど100年を迎え、メディアでは関東大震災の特集が数多く組まれた。しかし、実際にその死者たちがどのように弔われたのか、具体的な内容については初めて目にし、大変興味深く感じた。

 

関東大震災では死者・行方不明者約10万5千人と言われいるが、中でも被害が大きかったのが本所被服廠跡(現在の墨田区横網町公園)である。この場所だけで3万8千人以上の命が奪われた。

問芝氏によると、1923年(大正12年)9月1日に震災が発生した後、9月5日にはその場(本所被服廠跡)で火葬が開始されたとあり、当初は遺体に直接薪と石油をかけるという方法がとられたがうまくいかず、即席の火葬炉が急遽作られ、9月15日まで10日間かけて火葬が行われた。遺骨の山の高さは10尺(約3m)にも及んだ。

 

問芝氏は注目しているポイントとして、「遺骨の山が20日間野ざらしされた」ことを挙げている。現代の感覚でいえば、混乱のさなかとはいえ、最低限囲うなり覆うなり、できたのではないかと思うかもしれない。葬祭ディレクター試験の際に読んだ「葬儀概論」に記載があったようにも思うが、日本では明治以前は土葬が一般的であり、そもそも一般庶民に現在のような墓は無かったし、地域によっては両墓制といって、「ステ墓・埋め墓」と呼ばれる埋葬地と「参り墓・詣り墓」と言われる先祖供養のために訪れる場所は別であることも多かった。

 

遺体や遺骨の山の写真などは写真集「大正大震災大火災」として売り出され、初版30万部、当時としては異例のベストセラーになったという。また写真絵葉書としても大量に流通した。

いずれにしても、大正12年の時点でも現代とは遺体や遺骨に対する感覚が異なっていたことを証明している。しかし、遺族はひとかけらでもいいから遺骨を持ち帰りたいと願い、宗教者は連日回向した。こうしたことが、のちの東京都慰霊堂の建設に繋がったという。

 

そして、行政としては関東大震災における遺体を弔う経験が、のちの東京大空襲(1945年3月10日)の際に生かされることになった。※一晩で10万人を超す死者を出した東京大空襲は、一度の空襲における死者数としては世界史上最多と言われる。

 

詳しくは実際に雑誌の本文を一読頂きたいと思うが、大災害が現在の死生観に大きく影響を与えたという問芝氏の指摘はまさにそのとおりだと感じる。

 

「今日における墓地・納骨堂・そして遺骨の弔いをめぐる観念の一端は、実のところ関東大震災の副産物であったことが示唆される。(中略)東京そして日本墓制史の大きな転移として位置づけられるべきものと考えられる」

 

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株式会社蒼礼社

代表取締役 塩田 正資

株式会社蒼礼社は、皆様の大切な想いに寄り添いながら、葬儀のご相談をお受けしています。 私自身14歳で父を失った経験から命の儚さを感じ、この仕事に携わるようになりました。 蒼礼社では、ご遺族が安心してお別れできるよう、全てのプランに「エンゼルメイク」を含め、 故人を穏やかな姿でお見送りいただけるよう、心を込めてサポートしています。

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